2009年10月11日
声は嘘をつかない
最近多いけど、またまた図書館ネタ。
静岡市立図書館には、たくさんのCDが保管されていて、自由に借り
出せるということは以前書いた。
このCDは音楽ものだけではなくて、落語、講談、効果音(しかし、
たとえば雑踏の音のCD、なんて誰が使うんだ?)などの豊富なコレ
クションが揃っている。
この中で、先日小林秀雄の対談のCDを見つけて、早速借りてみた。
実は、私は高校の現国の問題で出会って以来の小林ファンで、時折読み返
してきた。、、、というより、時々読みたくなっては文庫版の『考えるヒ
ント』あたりを買って、パラパラしたりしていた。
後々の伏線として言っておくと、小林は、執筆の時には一行一行を文字ど
おり呻吟しながら書いていて、その様子は鬼気迫るものがあったという。
コタツに半身突っ込んで、うーん、と、頭を抱えながら仰向けに寝たり。
そして、文章自体もその伝説に似つかわしく、びっちりと論理で固められ
たものだという認識を持たれていて、だからこそ現国の問題の常連とも
なっていたわけだ。
前置きが長くなってしまったが、まあそういうわけで、小林秀雄の肉声っ
てのを聞いてみるか、と思い立ったのだった。
彼の語り口については様々な人が書いているが、たとえば脳学者の茂木健
一郎さんは、「もっと重々しい語り口かと思っていたら、声が甲高くて落
語家みたいだった」みたいなことを書いている。小林は、一説には志ん生
のレコードを繰り返し聞いて語りの練習をしていたというのだが、実際ま
さにその通りなのだ。
きっぷの良い江戸弁で「そうかい、しかしそりゃあなんだね」、とくる。
茂木さんのエッセイでは、せっかくの声という切り口を話の枕にだけ使っ
ていて、とても未消化なので今日はそのことを書きたい。
実際は語りっていうのは、かなり本質的で、ごまかしが効かないものだと
思う。
ちょっとした逡巡や、苛立ち、迷い。声は、実に正直にその人の輪郭と限
界を見せてしまう。
この声を念頭に、小林のエッセイを読むと、何だか、信頼度が増すのだ。
彼が本当に悩んだこと、考えたことの軌跡が、その声に残っている気がし
たのだ。
残念ながら、今日は時間切れ。続きは明日ある、かもしれない。
静岡市立図書館には、たくさんのCDが保管されていて、自由に借り
出せるということは以前書いた。
このCDは音楽ものだけではなくて、落語、講談、効果音(しかし、
たとえば雑踏の音のCD、なんて誰が使うんだ?)などの豊富なコレ
クションが揃っている。
この中で、先日小林秀雄の対談のCDを見つけて、早速借りてみた。
実は、私は高校の現国の問題で出会って以来の小林ファンで、時折読み返
してきた。、、、というより、時々読みたくなっては文庫版の『考えるヒ
ント』あたりを買って、パラパラしたりしていた。
後々の伏線として言っておくと、小林は、執筆の時には一行一行を文字ど
おり呻吟しながら書いていて、その様子は鬼気迫るものがあったという。
コタツに半身突っ込んで、うーん、と、頭を抱えながら仰向けに寝たり。
そして、文章自体もその伝説に似つかわしく、びっちりと論理で固められ
たものだという認識を持たれていて、だからこそ現国の問題の常連とも
なっていたわけだ。
前置きが長くなってしまったが、まあそういうわけで、小林秀雄の肉声っ
てのを聞いてみるか、と思い立ったのだった。
彼の語り口については様々な人が書いているが、たとえば脳学者の茂木健
一郎さんは、「もっと重々しい語り口かと思っていたら、声が甲高くて落
語家みたいだった」みたいなことを書いている。小林は、一説には志ん生
のレコードを繰り返し聞いて語りの練習をしていたというのだが、実際ま
さにその通りなのだ。
きっぷの良い江戸弁で「そうかい、しかしそりゃあなんだね」、とくる。
茂木さんのエッセイでは、せっかくの声という切り口を話の枕にだけ使っ
ていて、とても未消化なので今日はそのことを書きたい。
実際は語りっていうのは、かなり本質的で、ごまかしが効かないものだと
思う。
ちょっとした逡巡や、苛立ち、迷い。声は、実に正直にその人の輪郭と限
界を見せてしまう。
この声を念頭に、小林のエッセイを読むと、何だか、信頼度が増すのだ。
彼が本当に悩んだこと、考えたことの軌跡が、その声に残っている気がし
たのだ。
残念ながら、今日は時間切れ。続きは明日ある、かもしれない。
Posted by しぞーか式。 at
23:09
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