2010年09月13日
夜にすれ違った顔の無い男
昔、単身赴任をしていた頃の話。
健康のために、というよりはストレス解消のために、近所を夜歩き回っていた。夜歩くのは、なんだか不思議な鎮静効果があって、いくらでも歩いていける気持ちになる。
あれはちょうど単身赴任が始まった頃。毎日緊張はかなりしていて、でも仕事がそんなに忙しくなくて、という時期だった。夜を歩いているうちに、当時の家からちょっと歩いたところに、真っすぐな散歩道を見つけた。おそらく昼間には人がそれなりに行き交い、にぎわうのだと思うけど、長い川沿いがずっと板張りの遊歩道になっていて、ところどころ公園めいたベンチや大きな時計などが配置されていた。上流から下流まで歩くと小一時間かかる、ちょうどいい散歩道だった。
いつものように眠れなかった日、朝3時か4時のまだ暗いころだ。家を抜け出して、いつもの散歩道まで歩いた。川沿いに出たら、軽くランニングしたり歩いたりしながら、とにかく自分のペースを狂わせないようにだけ気を使いながら川沿いを行く。
すると、遠く向こうから、私よりちょっと背の高い男が、ゆっくりと川沿いを歩いてくる。ちょっと猫背で歩いている姿がうす気味悪くて、注視できないでいた。だんだん男は近づいてくる。
そして、これはどう考えても目の錯覚なのだけれど。すれ違うとき、目の隅で顔をみたら、男の顔の周辺がグレイにそこだけ光があたっていない空洞のように見えた。「きっと、目を向けてきちんと見たら目の錯覚で、なんでもないんだ、普通の人なんだ」と思って目を向けようとしたのだけれど、なんだかぞっとして、しばらく目を向けられなかった。すれちがってずいぶん経って、勇気を奮って振り返ったら、遠くにその男が歩き去るのが見えた。
夢でも怪談でもなく、何かの比喩でもなくて、本当に体験した、すごく不思議な想い出を書いてみた。なので、この話の続きは特にない。そのあとそんなに怖い思いもしなかったし、だんだん夜よく眠れるようになって、その道を走るのは、朝7時とかの普通の早朝になっていった。
さて、実は、今日そのことを思い出しながら自転車で帰っている途中のこと。
「ウ~~~」という、不完全燃焼のサイレンのような、初めて聞くような異様に大きな音をきいてビクっとした。何か、自分が思い出していることとシンクロしているような気がして。
実を言えば、(というか考えるまでもなく)出動するまえの消防車がサイレンを低く鳴らしていただけなのだけど、あの夜にすれちがった男のことを考えていたので、なんだかあの音をきっかけにどこかに連れて行かれそうな気がしてしまったのだ。
あの男の顔が灰色にくぼんで見えたのは、たぶんいろんな偶然が重なった目の錯覚かもしれないのだけれど、それでも、そういうふうに見えてしまうぐらい、特別な心の状態にいたんだな、と思う。
健康のために、というよりはストレス解消のために、近所を夜歩き回っていた。夜歩くのは、なんだか不思議な鎮静効果があって、いくらでも歩いていける気持ちになる。
あれはちょうど単身赴任が始まった頃。毎日緊張はかなりしていて、でも仕事がそんなに忙しくなくて、という時期だった。夜を歩いているうちに、当時の家からちょっと歩いたところに、真っすぐな散歩道を見つけた。おそらく昼間には人がそれなりに行き交い、にぎわうのだと思うけど、長い川沿いがずっと板張りの遊歩道になっていて、ところどころ公園めいたベンチや大きな時計などが配置されていた。上流から下流まで歩くと小一時間かかる、ちょうどいい散歩道だった。
いつものように眠れなかった日、朝3時か4時のまだ暗いころだ。家を抜け出して、いつもの散歩道まで歩いた。川沿いに出たら、軽くランニングしたり歩いたりしながら、とにかく自分のペースを狂わせないようにだけ気を使いながら川沿いを行く。
すると、遠く向こうから、私よりちょっと背の高い男が、ゆっくりと川沿いを歩いてくる。ちょっと猫背で歩いている姿がうす気味悪くて、注視できないでいた。だんだん男は近づいてくる。
そして、これはどう考えても目の錯覚なのだけれど。すれ違うとき、目の隅で顔をみたら、男の顔の周辺がグレイにそこだけ光があたっていない空洞のように見えた。「きっと、目を向けてきちんと見たら目の錯覚で、なんでもないんだ、普通の人なんだ」と思って目を向けようとしたのだけれど、なんだかぞっとして、しばらく目を向けられなかった。すれちがってずいぶん経って、勇気を奮って振り返ったら、遠くにその男が歩き去るのが見えた。
夢でも怪談でもなく、何かの比喩でもなくて、本当に体験した、すごく不思議な想い出を書いてみた。なので、この話の続きは特にない。そのあとそんなに怖い思いもしなかったし、だんだん夜よく眠れるようになって、その道を走るのは、朝7時とかの普通の早朝になっていった。
さて、実は、今日そのことを思い出しながら自転車で帰っている途中のこと。
「ウ~~~」という、不完全燃焼のサイレンのような、初めて聞くような異様に大きな音をきいてビクっとした。何か、自分が思い出していることとシンクロしているような気がして。
実を言えば、(というか考えるまでもなく)出動するまえの消防車がサイレンを低く鳴らしていただけなのだけど、あの夜にすれちがった男のことを考えていたので、なんだかあの音をきっかけにどこかに連れて行かれそうな気がしてしまったのだ。
あの男の顔が灰色にくぼんで見えたのは、たぶんいろんな偶然が重なった目の錯覚かもしれないのだけれど、それでも、そういうふうに見えてしまうぐらい、特別な心の状態にいたんだな、と思う。
2010年08月20日
自分の輪郭
Jeffrey Deaver の"Roadside Crosses"をようやく読み終えた。読み始めてからなんと半年。でも、いったんエンジンがかかると2週間ほど。やっぱりミステリーは勢いで読まないと。
さて、ストーリーはというと、、、、
とある掲示板に投稿した人たちがつぎつぎと事件の被害者になる。犯人は、その掲示板で投稿者たちが「ネットいじめ」をした少年なのか?それとも真犯人は別にいるのか?、、、、。ネット世界で個人情報を入手して次々と犯罪を重ねる手ごわい犯人との戦いが始まった。
(ミステリーなので、ネタバレしないように一応気を使いました。)
さて、この小説のメインテーマは、「ネット社会のプライバシー」だ。人は、あまりにも安易に自分の情報の断片をネットにさらしてしまう。確かにそのパーツ一つ一つはなんでもない情報なのだが、悪意を持った誰かがそれらの情報を統合すると、その人の生活習慣や性癖の細かいところまで読み取られてしまう、ということへの警鐘なのだろう。たとえば、ブログで、「○○公園はほんとジョギングにはいいよね、俺、朝はいつもここで走ってるんだよ」と書いただけで、その○○公園で犯人に待ち伏せされる怖さ。
しかし、それとは全く次元が違うところで実はもっと怖いことがあるんだよ、ということもこの小説は明らかにしている。
たとえば、社会にとっての私とは、「男で、30代で、趣味は水泳で、静岡に暮らしていて、家族は3人で、、、」という、様々な情報の交差点(crosses)に現れてくるものだ。
ということは、私という個人にとっていくら大事な個性・属性であっても、数値化できないものは捨てられてしまうし、もっといえば、そんなものは捨て去っても「私」は特定できてしまうので、社会をまわしていくためには何の支障もない。
実は、ジェフリー・ディーバーの2009年の作品『ソウル・コレクター』(こちらは翻訳が出ている)でもサイバー犯罪が取り上げられていて、ここでも個人情報を収集・改変して無実の人を犯人に仕立て上げるという敵が登場する。しかし、この小説では、情報を悪用されることの怖さについては語っていても、個人が情報化される恐怖については語っていなかった。まさに、"Roadside Crosses"のメインテーマは、この「情報化」と「情報化から零れ落ちるもの」だとおもう。
(余談ながら、この作品、ともに犯人がつかまる後半部分がちょっとご都合主義に感じられる。かなりのラッキーと犯人の不手際であっさり解決に至ってしまうのだ。しかし、それは逆にいえば、こうした犯罪がリアルに起きたら、相当の幸運がないと解決にはいたらない、という現実の裏返しなのだろう。)
さて、例によって枕が長大になってしまったが、今日の目的は、佐藤雅彦ディレクション『これも私と認めざるをえない』展の感想をもう一度書くことだった。先日、Orangeさんからコメントをいただいて、うやむやにしかけてたこの感想を、やっぱりきちんと書いてみないとな、と思ったのだった。
7月24日に、このブログでも展覧会を見たことは書いたものの、うかつに書くと「ネタバレ」して、読んだ人が展覧会を楽しめなくなる危険を感じたので、詳細については一切触れなかったのだ。
ネタバレになったら困る、なんて、これまたミステリー小説のようだけど、、、、。
でも実際、この展覧会は、予備知識なしで会場に出かけ、作品に不意打ちをくらい、会場を出た後にグルグル回る頭を抱えて、自分がなぜあれらの作品に衝撃を感じたのかをしつこくしつこく反芻する、というふうに、つまりミステリー小説を読むように楽しむのが一番楽しめるし、それだけの気構えをもって見るにふさわしい展覧会だと思う。
展覧会のテーマは、「自分の輪郭について」(だと思う)。
「自分の輪郭」とは、他人と自己を分ける境界線のことだと言えるだろうが、一言で境界線といっても、実にいろいろな線の引き方がありえる。また、この境界線自体を、肯定的に捉える人と、否定的に捉える人といるだろう。
例えば、近年発達が目覚しい個人の認証技術も、境界線の一つと言えるだろう。認証技術の進歩によって、銀行のATMなどは大きな変化をとげた(し、これからも遂げようとしている)。
展覧会では、この技術を活用した展示も数多くあった。自分の外的特徴(指紋とか、身長とか、筆跡とか)で実にあっさりと個人が特定されるということの驚きが体験できる。指紋などよく知られた認証方法に限らず、思わぬところで(たとえば眼球の中の血管の模様で)、完璧に人間が特定できてしまう。こんなにシンプルに確実に「私」の境界線って引けちゃうんだ、技術ってすごいな、という驚きだ。
しかし、この展示に距離を置いてじっと考えてみると、本来私が持っている様々な要素は全然無視しても私が特定出来てしまうということに、じんわりと驚く。自分の人格や個性ではなく、こんな細部(例えば瞳の血管パターン)が自分を代表してしまうことがあるんだ、という、ちょっと悲しい驚きも感じる。
さて、逆に、「自分がひそかにこれが自分だと思っているもの」も、自分の輪郭と言える。
たとえば、鏡を覗くとき毎回無意識に確認している自分の顔、とか、自分の幼少の記憶とか。これは上記の数値化できる個人認証とは全く別に、無意識ながら日々の暮らしの中では、自分の輪郭を保障する大事な要素だ。
さて、ネタバレの危険があるのでここから話はグンと抽象的にならざるを得ないのだけれど、展覧会では、こうした指標の一つ一つを作品と言う形で明確に提示してくれる。展示を見た私たちは、今まで無意識に指標にしていた一つ一つの検証を迫られる。
そうした指標で私がどれだけ他人と区別可能なのか。また、その指標は私たちが思っているほど確実でゆるぎないものなのか。
こうした遊びめいた思考実験の果てに、とても自分と認められないような何かが、展示を身終えると自分と感じられるようになる。逆に、明らかに自分の一部と思っていた何かへの疑いが生まれてくる。
実際、とある展示(ヒントは「金魚」)を見ているとき、私は、足元がふわーっとして、弱い吐き気を感じるほどショックだった。自分の輪郭が溶け出すような感覚を味わったからだと思う。
これは、かなりに哲学的な問題だ。自己と他者。
しかし、そうした日常の自明性への疑いを、あくまでもエンターテイメントとして提示してくれるこの展覧会の凄みがある。

先日、自分の指をきっちり認証してくれなかった銀行のATMと出会って足元がぐらぐらする感じを味わった、あのエピソードをまた思い出してしまった。あれも、「自分の輪郭が溶け出す」体験の一つだった。
うーん、かなりに舌足らずではあるが、今現在はこれぐらいが自分の限界かも。
もっとうまく整理できれば、いつかきっと。
「これも自分と認めざるをえない」展
東京ミッドタウン ガーデン内 「21-21 design sight」
港区赤坂9-7-6
11月3日まで
さて、ストーリーはというと、、、、
とある掲示板に投稿した人たちがつぎつぎと事件の被害者になる。犯人は、その掲示板で投稿者たちが「ネットいじめ」をした少年なのか?それとも真犯人は別にいるのか?、、、、。ネット世界で個人情報を入手して次々と犯罪を重ねる手ごわい犯人との戦いが始まった。
(ミステリーなので、ネタバレしないように一応気を使いました。)
さて、この小説のメインテーマは、「ネット社会のプライバシー」だ。人は、あまりにも安易に自分の情報の断片をネットにさらしてしまう。確かにそのパーツ一つ一つはなんでもない情報なのだが、悪意を持った誰かがそれらの情報を統合すると、その人の生活習慣や性癖の細かいところまで読み取られてしまう、ということへの警鐘なのだろう。たとえば、ブログで、「○○公園はほんとジョギングにはいいよね、俺、朝はいつもここで走ってるんだよ」と書いただけで、その○○公園で犯人に待ち伏せされる怖さ。
しかし、それとは全く次元が違うところで実はもっと怖いことがあるんだよ、ということもこの小説は明らかにしている。
たとえば、社会にとっての私とは、「男で、30代で、趣味は水泳で、静岡に暮らしていて、家族は3人で、、、」という、様々な情報の交差点(crosses)に現れてくるものだ。
ということは、私という個人にとっていくら大事な個性・属性であっても、数値化できないものは捨てられてしまうし、もっといえば、そんなものは捨て去っても「私」は特定できてしまうので、社会をまわしていくためには何の支障もない。
実は、ジェフリー・ディーバーの2009年の作品『ソウル・コレクター』(こちらは翻訳が出ている)でもサイバー犯罪が取り上げられていて、ここでも個人情報を収集・改変して無実の人を犯人に仕立て上げるという敵が登場する。しかし、この小説では、情報を悪用されることの怖さについては語っていても、個人が情報化される恐怖については語っていなかった。まさに、"Roadside Crosses"のメインテーマは、この「情報化」と「情報化から零れ落ちるもの」だとおもう。
(余談ながら、この作品、ともに犯人がつかまる後半部分がちょっとご都合主義に感じられる。かなりのラッキーと犯人の不手際であっさり解決に至ってしまうのだ。しかし、それは逆にいえば、こうした犯罪がリアルに起きたら、相当の幸運がないと解決にはいたらない、という現実の裏返しなのだろう。)
さて、例によって枕が長大になってしまったが、今日の目的は、佐藤雅彦ディレクション『これも私と認めざるをえない』展の感想をもう一度書くことだった。先日、Orangeさんからコメントをいただいて、うやむやにしかけてたこの感想を、やっぱりきちんと書いてみないとな、と思ったのだった。
7月24日に、このブログでも展覧会を見たことは書いたものの、うかつに書くと「ネタバレ」して、読んだ人が展覧会を楽しめなくなる危険を感じたので、詳細については一切触れなかったのだ。
ネタバレになったら困る、なんて、これまたミステリー小説のようだけど、、、、。
でも実際、この展覧会は、予備知識なしで会場に出かけ、作品に不意打ちをくらい、会場を出た後にグルグル回る頭を抱えて、自分がなぜあれらの作品に衝撃を感じたのかをしつこくしつこく反芻する、というふうに、つまりミステリー小説を読むように楽しむのが一番楽しめるし、それだけの気構えをもって見るにふさわしい展覧会だと思う。
展覧会のテーマは、「自分の輪郭について」(だと思う)。
「自分の輪郭」とは、他人と自己を分ける境界線のことだと言えるだろうが、一言で境界線といっても、実にいろいろな線の引き方がありえる。また、この境界線自体を、肯定的に捉える人と、否定的に捉える人といるだろう。
例えば、近年発達が目覚しい個人の認証技術も、境界線の一つと言えるだろう。認証技術の進歩によって、銀行のATMなどは大きな変化をとげた(し、これからも遂げようとしている)。
展覧会では、この技術を活用した展示も数多くあった。自分の外的特徴(指紋とか、身長とか、筆跡とか)で実にあっさりと個人が特定されるということの驚きが体験できる。指紋などよく知られた認証方法に限らず、思わぬところで(たとえば眼球の中の血管の模様で)、完璧に人間が特定できてしまう。こんなにシンプルに確実に「私」の境界線って引けちゃうんだ、技術ってすごいな、という驚きだ。
しかし、この展示に距離を置いてじっと考えてみると、本来私が持っている様々な要素は全然無視しても私が特定出来てしまうということに、じんわりと驚く。自分の人格や個性ではなく、こんな細部(例えば瞳の血管パターン)が自分を代表してしまうことがあるんだ、という、ちょっと悲しい驚きも感じる。
さて、逆に、「自分がひそかにこれが自分だと思っているもの」も、自分の輪郭と言える。
たとえば、鏡を覗くとき毎回無意識に確認している自分の顔、とか、自分の幼少の記憶とか。これは上記の数値化できる個人認証とは全く別に、無意識ながら日々の暮らしの中では、自分の輪郭を保障する大事な要素だ。
さて、ネタバレの危険があるのでここから話はグンと抽象的にならざるを得ないのだけれど、展覧会では、こうした指標の一つ一つを作品と言う形で明確に提示してくれる。展示を見た私たちは、今まで無意識に指標にしていた一つ一つの検証を迫られる。
そうした指標で私がどれだけ他人と区別可能なのか。また、その指標は私たちが思っているほど確実でゆるぎないものなのか。
こうした遊びめいた思考実験の果てに、とても自分と認められないような何かが、展示を身終えると自分と感じられるようになる。逆に、明らかに自分の一部と思っていた何かへの疑いが生まれてくる。
実際、とある展示(ヒントは「金魚」)を見ているとき、私は、足元がふわーっとして、弱い吐き気を感じるほどショックだった。自分の輪郭が溶け出すような感覚を味わったからだと思う。
これは、かなりに哲学的な問題だ。自己と他者。
しかし、そうした日常の自明性への疑いを、あくまでもエンターテイメントとして提示してくれるこの展覧会の凄みがある。

先日、自分の指をきっちり認証してくれなかった銀行のATMと出会って足元がぐらぐらする感じを味わった、あのエピソードをまた思い出してしまった。あれも、「自分の輪郭が溶け出す」体験の一つだった。
うーん、かなりに舌足らずではあるが、今現在はこれぐらいが自分の限界かも。
もっとうまく整理できれば、いつかきっと。
「これも自分と認めざるをえない」展
東京ミッドタウン ガーデン内 「21-21 design sight」
港区赤坂9-7-6
11月3日まで
2010年08月16日
2010年07月24日
どんなとこにも顔があるんだ
東京にいってたんだけど、やっぱりいろんなものに顔を見るのは相変わらず。
竹橋駅で出会ったちょっとコワモテの顔と、

デパートのエスカレーターで出会ったおとぼけ顔。

灼熱の日本工芸館の入り口で迎えてくれたのは、、、、、

夜の住宅街で突然の高笑いに振り向くと、、、

お願いだから夜道で驚かさないで欲しいものである。
2010年05月27日
2010年05月26日
2010年05月25日
2010年04月04日
タクシーで人生相談

3月末、京都の上賀茂神社に行ったときの写真。枝垂桜が満開だった。

同じく3月末、木屋町の夜桜。今日あたり、散りまくってきれいなんじゃないかな。
さて、昨日の、京都のタクシー話の続き。
実は、この日乗ったタクシーは、4台中3台がはずれ。
1. 道をごまかして遠回り(一方通行とか混雑のせいじゃないと思う。地図を見ているのに気づくと焦っていた)
2. 言葉遣い乱暴、ドアを閉めるとき(もしかしたらわざと?)客にドアをぶつける
と来て、3台目が昨日書いた「罵詈雑言タクシー」だったので、ちょっとうんざりしていた。
こういう日の翌日って、もうタクシーに乗るのも恐くなるわけだが、そうもいかず、またしてもタクシーを拾った。
今度の運転手さんはすごく話しかけるタイプだった。いろいろ桜の名所を教えてくれたりして、人懐っこくてわりといいかな、と思い始めた頃。
「ところで、みなさんはご家族ですか?ご結婚は?実家からは離れて暮らしてますか?」
などなど、かなり深めにプライベートに踏み込んできた。
(はあ。)
心の中でため息をつきつつ、雰囲気を壊さないように受け答え。
しかし、道中も半分を過ぎると、なんだか風向きが変わってきた。
だんだん、こっちのプライバシーに突っ込まなくなってきて、運転手さん自身の話になってきたのだった。
「京都のタクシーは、台数が多すぎて飽和状態なんですわ。」
「運転手の稼ぎで子供を学校にやろうと思うと、かなり長時間がんばらないと辛い。」
「だから、みんなギスギスしてますよ」
「でも、自分にはこの仕事がむいていると思うから、がんばってますけどね。」
・・・・・
そうか、、京都の運転手さんも大変なんだな。。。。
昨日の問題タクシーにも、少し同情する気持ちになった。
などと運転手さんの話を聞くうちに、今度はさらにヘビーな話になってきた。
「タカシ(仮名)がね、子供をかわいがらんのですわ」
???タカシ(仮名)って誰?
解説なしで登場したタカシに、車内のみんな、きょとん。
しかし、聴いているうち、娘さんの夫であることがわかった。
これこそ運転手さんのプライベートなことなので、詳細は省くけれど、いったんダメになりかけた娘家族が、これからやり直そうというタイミングで、けなげで可愛い孫もいるから大丈夫とも思うけれども、でもお父さんとしては心配でならない、という話。
もう、こちらはひたすら聞き役。
一を答えると、十返ってくる。
車を降りた私たちは、明るいうちの思いっきりヘビーな話に、ちょっとアテられてしまって、ホテルでお茶を飲んでやっと一息ついた。
こうして、みんなで話した結論。
つまり、最初に私たちの家族に振っていた話は、運転手さん的には伏線だったのだ。
お客さんに、ちょっと踏み込み気味に話をして、それでも引かずにきちんと聴いてくれる人と出会ったので、嬉しくて話が止まらなくなったんだよ、と。
ちなみに。
このあと、ツイッターで、京都のいいタクシー教えてください、と聞いたところ、MKタクシーを勧められた。
実際、台数があってすぐ捉まえられるし、近距離でも嫌な顔一つせずに連れて行ってくれる。
この教育のされ方を見て、以降は全てMKタクシーにしたのだが、全くトラブルもなく、いい旅になった。
娘の悩みを打ち明けてくれる運転手さんも、ちょっといい思い出にはなったんだけどね。
2010年04月03日
京都タクシー事情
先日、家族で京都に行った時のこと。予約したお店にタクシーで向かった。
お店は電話の対応もしっかりしているし、材料もこだわってるし、と、期待度満点。
そんなわけでワクワクした気分でタクシーに行き先をつげたら、いきなりため口。
「兄ちゃん、ほんまにそんなところに店あるのんか?」
まあ向こうは明らかにアラウンド70だけど、ため口はないでしょ。
「どうせぼったくりの店ちゃうの?」
「絶対騙されてるて」
家族もいる手前、最初は「そんなことないでしょう」と軽く流そうとした。
が、運転手さん、この手の、タチの悪い悪口雑言を延々と言い始めた。
「いや、わかる。そうなんやって」
うきうきと食事に行こうとする客に冷水を浴びせるなんて、プロの風上にもおけない。なので、教育的指導。
私もため口に切り替えて、
「あんたさあ。そういうゴタク、うんざりなんだよ。この店のこと、知らずによく悪口言えるよね。」
まあ、こんな感じでしばし叱責。
お金を払いながら、少し優しく。
「もっとプロの自覚持たなきゃだめだよ。」
年上に敬語を使わなかったなんて、久しぶりである。っていうか初めてだったかもしれない…。
まあ、あの人もこれでココロを入れ替えるようなタマじゃあなさそうだったが。
さて、実は、もう一人、個性的な運転手さんに会って、この話をしないとオチないのだが、時間がないので続きはまた明日。
そうそう、さっきの顛末で行ったお店が大当たりだったんだけど、これも改めて。
お店は電話の対応もしっかりしているし、材料もこだわってるし、と、期待度満点。
そんなわけでワクワクした気分でタクシーに行き先をつげたら、いきなりため口。
「兄ちゃん、ほんまにそんなところに店あるのんか?」
まあ向こうは明らかにアラウンド70だけど、ため口はないでしょ。
「どうせぼったくりの店ちゃうの?」
「絶対騙されてるて」
家族もいる手前、最初は「そんなことないでしょう」と軽く流そうとした。
が、運転手さん、この手の、タチの悪い悪口雑言を延々と言い始めた。
「いや、わかる。そうなんやって」
うきうきと食事に行こうとする客に冷水を浴びせるなんて、プロの風上にもおけない。なので、教育的指導。
私もため口に切り替えて、
「あんたさあ。そういうゴタク、うんざりなんだよ。この店のこと、知らずによく悪口言えるよね。」
まあ、こんな感じでしばし叱責。
お金を払いながら、少し優しく。
「もっとプロの自覚持たなきゃだめだよ。」
年上に敬語を使わなかったなんて、久しぶりである。っていうか初めてだったかもしれない…。
まあ、あの人もこれでココロを入れ替えるようなタマじゃあなさそうだったが。
さて、実は、もう一人、個性的な運転手さんに会って、この話をしないとオチないのだが、時間がないので続きはまた明日。
そうそう、さっきの顛末で行ったお店が大当たりだったんだけど、これも改めて。
2010年04月02日
恐竜のハムレット

恐竜の足跡をたどっていくと。

「おっ、恐竜のハムレット!」
頭蓋骨を手にしているので、てっきりそうだと思ったら、恐竜の「恐竜博士」、なんだそう。
そういえば、白衣を着てる。
行ってきました、『ふくい南青山291』、福井の物産館。

半ドアさんにすすめた手前、自分でも福井名物、鯖の「へしこ」を、2つ購入。

そういえば、福井って、恐竜の化石がたくさん発掘されるので、「恐竜の県」ってことになっているらしいです。
2010年03月30日
2009年11月24日
旅とくつろぎの永久運動

昨日おとといと、長野に家族で旅してきた。長野は遠いし寒かったけど、時に家を離れるのは楽しい。
もらっちゃ王(5歳男子)は、ここで見付けた螺旋状の棒が気にいったらしく、しばらく持ち歩いていた。
彼はこういう不思議な形のものを見つけてくるのが実にうまい。
捨てるのは実に下手だが。
やがて旅を終えて、家に帰るとほっとした。
「やっぱり家が一番」、ということを確かめるためにも、旅は大切だ。
唐突だが、音楽の3コードのCGFを思い出した。
C
安定しているが面白みがなくて、続けて聞いていると刺激が欲しくなる
G
不安定で、楽しいけど長くはいられない
F
比較的安定しているが、落ち着き度ではCには負ける
という3つの組み合わせ。日常と旅と仕事場の関係とよく似ているなあ。
こうして、旅にも寛ぎにも終わりはない。
2009年10月01日
山とつながる、川とつながる
今日は趣向を変えて、東京は渋谷のお店。
以前渋谷で働いていたころ、行きつけだったお店だ。
渋谷駅から五分も離れていないのに、微妙に、いや非常に分かりにくい場所にある。
渋谷川沿い、という超渋いロケーション。

すごく当りの柔らかいママと、ちょっと頑固なマスターがやっているお店。
マスターのお眼鏡にかなった食材と日本酒が並ぶ。

山形の、いや、青森だっけ、、、、とにかく東北の山で採れた本物の舞茸の焼いたの。
美味しい!と思わず言ったら、マスター、いつもあるわけじやないからね、今だけだよ、とニヤリ。
実は、いろんなコネで全国の新鮮な食材を探し、宅配便もフルに使って、季節の様々な食材を仕入れているのだ。
そして、日本酒のセレクションも渋い。
定番のお酒は、〆張鶴、鶴の友など、ほとんど2級酒。1合390円だったかな、たしかそんなもの。
でも、しっかり、「2級酒のおいしさを楽しめるもの」をそろえてある。
ここのカウンターが、全国の自然に繋がっている。東京ならではのスタイルなのかもしれない。
今だけ、のものがいつもある店。かといって高いお店ではない。そこがまたいい。
ニヤリ。
「ニュー信州」
渋谷区渋谷3-20-16
ニュー栄ビル1F
03-3498-9606
17:00~23:00
第2・3土、日祝休
以前渋谷で働いていたころ、行きつけだったお店だ。
渋谷駅から五分も離れていないのに、微妙に、いや非常に分かりにくい場所にある。
渋谷川沿い、という超渋いロケーション。

すごく当りの柔らかいママと、ちょっと頑固なマスターがやっているお店。
マスターのお眼鏡にかなった食材と日本酒が並ぶ。

山形の、いや、青森だっけ、、、、とにかく東北の山で採れた本物の舞茸の焼いたの。
美味しい!と思わず言ったら、マスター、いつもあるわけじやないからね、今だけだよ、とニヤリ。
実は、いろんなコネで全国の新鮮な食材を探し、宅配便もフルに使って、季節の様々な食材を仕入れているのだ。
そして、日本酒のセレクションも渋い。
定番のお酒は、〆張鶴、鶴の友など、ほとんど2級酒。1合390円だったかな、たしかそんなもの。
でも、しっかり、「2級酒のおいしさを楽しめるもの」をそろえてある。
ここのカウンターが、全国の自然に繋がっている。東京ならではのスタイルなのかもしれない。
今だけ、のものがいつもある店。かといって高いお店ではない。そこがまたいい。
ニヤリ。
「ニュー信州」
渋谷区渋谷3-20-16
ニュー栄ビル1F
03-3498-9606
17:00~23:00
第2・3土、日祝休
タグ :ニュー信州
2009年08月12日
安曇野にて

長野にある知り合いの別荘に遊びに来ている。ここまで休憩を挟んで5時間もかかってしまった。
到着し、近くの「安曇野ちひろ美術館」に行った。
いわさきちひろは、活動の舞台が絵本だった事や、水彩の独特の淡い色づかいで、ちょっと過少評価されている、と言うか、少なくとも私はしていた。
しかし、実際に素で原画と向き合うと印象は一変した。
例えば『白い馬とりんごを持つ少年』。
著作権的にたぶんヤバいので、この展覧会へのリンクを貼っておきます。しばらくしたら見られなくなりそうですが。
表情が読み取れない少年の背景に、葉が落ちた木があって、その間を浮かぶように白馬が駆けている。
パステルっぽいきれいな色づかいで描かれているが、見れば見るほど、落ち着かない気持ちになる絵だ。
商業的な世界にいながら、こうした表現のデーモンみたいなものを抱いて創作を続けて来た小柄な女性。いわさきちひろは、もっと騒がれても良いのかも知れない。
そして、ベトナム戦争とこどもを主題にした絵本『戦火の中の子どもたち』。
いわさきちひろが、ここまで突っ込んで戦争について絵本を書いていたとは知らなかったので、不意打ちされて不覚にも目が潤んでしまった。こんなにイメージに訴える力を持った絵だったのだな。
子供の頃、松谷みよ子の『ふたりのイーダ』の司修のイラストにトラウマのような強烈な印象を受けたのだが、今更ながら、いわさきちひろ版も見てみたかったな、と思った。
昨日からの睡眠不足もあって、美術館の中のテラスで爆睡。ホントに心地よい椅子があって、気持ちいい場所だった。

『ふたりのイーダ』に登場する、「イナイ、イナイ、ドコニモ、イナイ」の椅子を思った。
2009年07月05日
2009年07月02日
D'ojo squim an jour‼

出雲名物 荷物にゃならぬ
聞いてお帰り 安来節
という訳で、先日の島根への帰省のお土産は、銘菓「どじょう掬いまんじゅう」。
ところで、唐突だが、出雲弁ってフランス語に似てい
るという説がある。なんでも、口をあんまり開かずに
響かせるところが似ているんだとか。
はい、みなさんもご一緒に、
ドジョスクイ マンジュ~
D'ojo squim an jour‼
2009年06月29日
金魚 株しき会社
ばたばたと忙しかった今回の帰省。
楽しみにしていた上の姪とは、ちょうど修学旅行ですれ違ってしまった。
彼女の家にあったのが、「出雲なんきん」。

この写真ではわからないと思うので、出雲で金魚をそだてているらしい中学生のHPへのリンクをおいておく。
おなかの部分が膨らんだ、とても変わった形をしている。
日本にはらんちゅうとか、バランスの変な金魚を愛でる習慣があるけど、まさか自分のふるさとでこんな生き物が愛好されているとは、全く灯台下暗しだった。
「いづもなんきん」は、天然記念物の金魚らしい。

彼女の絵を、金魚の水槽のそばで発見。
金魚の株式会社にも、社長がいて、部長、係長、課長と。
しかし、金魚の「しゅにん」って……。
「いづもなんきん」の人生もなかなかに大変そうである。
楽しみにしていた上の姪とは、ちょうど修学旅行ですれ違ってしまった。
彼女の家にあったのが、「出雲なんきん」。

この写真ではわからないと思うので、出雲で金魚をそだてているらしい中学生のHPへのリンクをおいておく。
おなかの部分が膨らんだ、とても変わった形をしている。
日本にはらんちゅうとか、バランスの変な金魚を愛でる習慣があるけど、まさか自分のふるさとでこんな生き物が愛好されているとは、全く灯台下暗しだった。
「いづもなんきん」は、天然記念物の金魚らしい。

彼女の絵を、金魚の水槽のそばで発見。
金魚の株式会社にも、社長がいて、部長、係長、課長と。
しかし、金魚の「しゅにん」って……。
「いづもなんきん」の人生もなかなかに大変そうである。
2009年06月26日
違う場所ごっこ
実家に帰って2泊した。
そうしたら、子供のころ、眠れない時によくやっていた遊びを思い出した。
布団の中に入って、仰向けになって目を閉じる。そして、今いるのはここじゃない別の場所だと想像する。
例えば小学生の頃に合宿した少年自然の家とか、田んぼの真ん中にあった親戚の家とか……。どこでもいい、本当に泊まったことがある場所を、なるだけリアルに思い描く。
例えば、大好きなおじいちゃんとおばあちゃんがいた親戚の家。実際、夏休みとかにはよく泊まっていた。
足元の1メートル先には中程にガラスが入った障子戸があって、枕元には仏壇があって、仏壇の隣には床の間。天井のあの辺りには電灯があり、紐がこの辺まで垂れている。
こうして考えているうちに、体の周りに空間が現れてくる。絶対に身体は動かさない。そうしてじっとしているうちに、ふわふわした気分になって、やがて眠ってしまう。
それでも眠れない時には、そこから今本当にいる場所に急に帰ってきたことを想像する。また別な場所へ飛んで……と、身体は動かさないのにいろんなところへ行けるのが楽しかった。
眠れない時の遊びには、もう一つ、頭の中で12345と数えながら、同時に54321と数える、というのもあった。
1と5を同時に、次は2と4を同時に、次は33を、42を、51を、そしてまた15…と続く。
うまく説明するのは難しいけれども、頭の中で二つの声を同時に出すわけだ。
これは頭が疲れるし、余分なことが考えられないくらい集中するので、すごくよく眠れる。
……実は眠れない時は今でも時々やっているのだった。
そうしたら、子供のころ、眠れない時によくやっていた遊びを思い出した。
布団の中に入って、仰向けになって目を閉じる。そして、今いるのはここじゃない別の場所だと想像する。
例えば小学生の頃に合宿した少年自然の家とか、田んぼの真ん中にあった親戚の家とか……。どこでもいい、本当に泊まったことがある場所を、なるだけリアルに思い描く。
例えば、大好きなおじいちゃんとおばあちゃんがいた親戚の家。実際、夏休みとかにはよく泊まっていた。
足元の1メートル先には中程にガラスが入った障子戸があって、枕元には仏壇があって、仏壇の隣には床の間。天井のあの辺りには電灯があり、紐がこの辺まで垂れている。
こうして考えているうちに、体の周りに空間が現れてくる。絶対に身体は動かさない。そうしてじっとしているうちに、ふわふわした気分になって、やがて眠ってしまう。
それでも眠れない時には、そこから今本当にいる場所に急に帰ってきたことを想像する。また別な場所へ飛んで……と、身体は動かさないのにいろんなところへ行けるのが楽しかった。
眠れない時の遊びには、もう一つ、頭の中で12345と数えながら、同時に54321と数える、というのもあった。
1と5を同時に、次は2と4を同時に、次は33を、42を、51を、そしてまた15…と続く。
うまく説明するのは難しいけれども、頭の中で二つの声を同時に出すわけだ。
これは頭が疲れるし、余分なことが考えられないくらい集中するので、すごくよく眠れる。
……実は眠れない時は今でも時々やっているのだった。
2009年06月25日
天井の顔


実家の天井。
子供の頃から、寝て天井を見るたび、顔があるなあ、と思っていた。
今見るとちょっと怖いが、昔は全然そんなことを思わなかった。
妹にこの顔の話をしたら、気がついていなくてびっくりしていた。
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