2010年08月14日

怪談としての『1Q84』

もう一月以上もまえになるけど、「考える人」という雑誌に村上春樹のロングインタビューが掲載されていた。
書店では「『1Q84』を読みおえてからお読みください」というふうに広告されていたとおり、話題作『1Q84』のネタバレありの長い長いインタビュー。さらに、これまでの村上作品を振り返る裏話が多数展開されていて、読みどころ満載だった。
なかでも、村上さんが、自分の作品を、世界の古典や現代文学のなかでどんな位置にいるべきなのかをかなり意識的に書いていることがわかるところは、とても興味深く読んだ。

さて、このインタビューの中には、村上春樹の


あのですね、『1Q84』は、簡単に言ってしまえば因縁話なんです。圓朝の『真景累ヶ淵』に似ているところがあります。僕のすごく好きな物語なんだけど。

という発言があって、面白そうだったので岩波文庫で探して読み始めた。先月「ひえひえ」というポストを書いたのはこういう次第だった。

さて、この『累ガ淵』は、落語家、、、、というよりむしろ『牡丹灯篭』などの怪談話で有名な三遊亭圓朝が、当時流布した怪談話をもとにした創作怪談。親が犯してしまった残酷な罪の報いが、子供、孫の代まで続いて祟りつづけるという長い長いお話だ。

口述筆記の形をとっているので、物語の構造にもかなり特徴がある。
落語でいう枕のような導入部があり、本の要所要所で何度か中締めがある。そして、また枕とあらすじがあって話が再開する。そのつど、「現代では幽霊なんていないことになっている」「でも、いると思う人にはいるんです」という、メタレベルの怪談解釈が織り込まれたりするのが面白い。
さて、そういう構造にひっぱられてか、物語の前半には要所要所で登場した亡霊が、物語の中盤から登場しなくなるのがとても興味深かった。たとえば、物語の前半では、悪役の男が、妻の顔が亡霊に見えて思わず妻を切り殺すシーンがある。つまり、登場人物は十分に罪の自覚を持っていて、それゆえに気に病み、幽霊を見てしまう、と読める。
つまり、この前半に登場する亡霊は、近代的な科学の視点からも「気のせい」という解釈が可能な存在なのだ。そもそも、題名の真景は神経から来ているらしいし。

ところが、物語後半になると、登場人物は、途中まで自分が祟られているということすら気づかず、運命に翻弄されるというような物語になっていく。そして、自分が祟られていたことは、悲劇が一通り起こってしまってから後付けで説明される。つまり、「運命」「宿命」というものの怖さが前面に出てくるのだ。
もちろん、物語の後半になっても要所要所では「美しい女の顔の傷」など、物語前半の亡霊を思い出させる描写は出てくるのだけれど、怖さの質が前半と後半で全く違っているのは明らかだ。
これは、祟りというものが、世代が下っていくにつれ幽霊個人(?)を離れて血筋の問題へと抽象化されていく過程のようにも見える。


物語前半で展開される、自分の悪行の報いとしての祟りへの恐怖。一方、物語後半では、登場人物は先祖の悪行を知らないのにひどい運命に翻弄される恐怖。
彼らも悪人ではあるけれど、ひどい目にあう理由はその悪行の報いではなく、先祖の悪行の祟り。たしかに子孫たちもひどい行いはするけれど、その悪行さえ、先祖の代からの祟りかもしれないのだ。

怪談話としての評価は前半の方が高く、こちらしか演じられないことも多いそうだが、私にとっては、この後半部分のほうが、不条理で怖い。なんだか、ギリシャ悲劇のような。


大きく話は跳ぶけど、先日見たアラン・パーカーの映画『エンゼル・ハート』も、本人のあずかり知らないところであらかじめ運命が決められている恐怖を描いた映画だったな。あれも怖かった。

自分は何も悪いことをしていないのに、悪い運命に見舞われたとき、そこに「先祖の悪行」という、自分ではどうしようもないことを後付けで理由に挙げられると、人はどこか安心できるのだろうか。それとも、絶望的な恐怖を感じるのだろうか。

ともかく、『1Q84』も、そうした物語の伝統をふまえていると思えば、なんだかまた広がりを持って読める気がする。

さてと、実はここまでは長い長い前ふりでして、、、、。
平野雅彦さんの「脳内探訪」を読んだかたならご存知だろうが、4夜連続の怪談話が昨日から始まっている。そして、今夜はまさにその円朝ゆかりの「累(かさね)」のお話、、、、、行きたいのだがどうしても所要があっていけない。

こちらが日程などの詳細。
幸運にも行けた方は、ぜひ感想を聞かせてください。

  


Posted by しぞーか式。 at 11:25Comments(0)しぞーかで考える