2009年11月06日

終わりのない傾き

今日はヒマでした。
久しぶりの平日お休みだったので、もらっちゃ王を幼稚園に連れて行った後、県立美術館に一人で行ってみた。ひとりで県立美術館というのは何年ぶりかなあ。だいたい、いつも家族と一緒だからなあ。
ここでは国文祭関連の展示もやっていたのだけれど、これは、あんまり話さないほうがよいでせう。

今日の鑑賞のテーマは、「見飽きたロダン館をどう楽しめるか」。。。。
まあそんなテーマを最初から考えていたはずもなく、本当に面白いのか不安だったんだけど、まあ楽しめました。

『考える人』の、左足親指反ってる問題については、以前もこのブログで触れたような気がするんだけど、ロダンって、変。



『考える人』については、以前このブログで、左足の親指が反っているのはおならを我慢しているのだ、って冗談っぽく書いた。



書いたのだけど、「もらっちゃ王」もいない、しーんとした空間でひとり向き合っていると、たかが足の親指の演出がすごく精神的な緊張感を感じさせるというか、シリアスに味わえて、これは冗談じゃないんだ、と思った。

ロダンって、もしかしたら、自分がそのポーズをとることで、ものすごくよく理解できるという彫刻家なのかもしれない。だとしたら、「ロダン体操」、すごい意味があったりして。


さて、もう一つ、今日気がついたのは、ロダンと重力の関係である。
今日見た作品の中では、これが典型例。



ふつう、重力にさからって不自然な体制をとらせるときは、瞬間を切り取った躍動感なんかが見えてくるはずなのに、この作品にはそういう動きの感覚がみじんもない。


それは、地獄の門を見上げたアングルのこの写真でも同じ。

動きと言うよりは、「不安定さ」を表すサインとして、不自然な重力を使っているように見えてくるのだ。

『地獄の門』を、重力の働く方向で見ても、全くばらばら。この大作は、そういう意味では全く一貫していない、ランダムな作品なのだ。



しかし、宙ぶらりんで、どこが上なのか下なのかわからないことで生まれる混沌とした感覚。
これって、ロダンのスタイルのかなり根っこに関わっている、大切な感覚な気がした。


もしかしたら、この重力の問題は、前述の『考える人』の足の親指にフィジカルに繋がっていくのかもしれないけど、今の私にはそこをつなげる力量がない。この問題は、またいずれ書けるようになる予感がする。  


Posted by しぞーか式。 at 19:56Comments(0)しぞーかでアート