2010年04月13日

悪夢の中の象

先週末、静岡県立美術館の伊藤若冲展に行ってきた。

悪夢の中の象

この日は若冲の第一人者、美術評論家の小林忠さんの講演もあり、あわせてあれだけ沢山の若冲を見るというのは、かなり贅沢な体験だったと思う。


それにしても若冲というのは不思議な人だ。

普通、作家の伝記的な事実を見ると、なんとなくその生涯がストーリーに収まって見えてくるものだ。

しかし、若冲は。

裕福な家に生まれて、、、、40歳で隠居して、、、70歳を超えてから自宅もアトリエも焼けて、、、、、

しかし、若冲についていうと、そうした事実で、彼の絵がどう変わったのか、なんともぼんやりしている。

ところが、その一方で、若い頃から南画風、水墨画風、狩野派に、街頭芸まで、これほどいろんな作風を、生涯にわたって探求した人もいない。この人、なにをやりたかったのだろう。

絵に向き合って見ると、この絵にどんな感想を持っていいのか、困惑している自分に気づく。

あえて言えば、この絵は「当惑するように仕組まれている」。
伊藤若冲ってこんな絵を書く人、こんな個性を持った人。。。。そういう、わかりやすい落としどころを注意深く回避しながら生涯を送った人なのではないか、とふと思った。



そのかわり、いくつかの象の絵の量感は圧倒的だ。まるで悪夢のように。
巨大な屏風絵などを見ると、小さい図版ではさほどでもないのだけれど、白くて、不定形で、悪意も善意も読み取れない純粋な重さとしてそこにある感じが、なんとも不気味に見えてくる。

小林忠先生のお話によると、若冲は、子供の頃象を見ている可能性が高い。その昔、東海道を象が江戸まで行く途中、見物したに違いないというのだ。

してみると、彼の中で、象だけが特別な位置を占めているとは考えられないだろうか。


子供のころの記憶や夢は、デフォルメされて、印象だけが肥大化というか抽象化と言うか、していく。それは、大人になってからしっかり観察するのとも、緻密に想像を広げるのとも違う。
苦労して本物を観察した(であろう)クジラや様々な生き物でもない。
逆に、資料を通してでしか知ることのできなかった珍しい動物植物とも違う。

象だけが、彼の記憶の中で、悪夢のように微笑みながら、肥大していったような気がしてならない。
もしかして、フロイトの夢判断のように読み解くと、若冲の隠されたこころが見えてきたりするのだろうか???


なんか尻尾切れですが、今日も時間切れなので、この続きは、うまく書き続けることができればまた。




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Posted by しぞーか式。 at 23:59│Comments(0)しぞーかでアート
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