2009年07月17日

あかるいへやで、じーーーーーっ。(オルタナイーヴ3)

まだまだ続く、『アートと学びの企画』の余波。
今日は古池大介さんの写真を見た感想について。

私は細部に目が行ってしまうタイプ。
以前子どもを連れて実家に帰省していたときのことだが、眠っている子どもの隣で横になっていたら、子どもの生え際辺りの髪の毛の流れかたが面白くて、つい夢中になって見ていた。そうしたら、親に、「お前は昔からそうやってじーっと見つめる子だった」と笑われた。

なんというか、細かいものをじっと見ているのが苦にならない、、、、というか、正直言うと大好きなのだ。

で、今回の古池さんの作品でわたしが「じーっと見た」ものたち。

海に舟が数隻浮かんでいる写真では、他の船は海の中でただ浮かんでいるのに、中の一隻だけ航跡がまっすぐに伸びているところ。この船だけ動いているんだろうか。スピードが違うんだろうか。その航跡を、じ~~~~っ。

海に飛び込もうとしている二人の少年の写真では、一方の子の膝小僧の擦り傷。そして、片足を手で持って、手と腕で三角形を作っている感じが気になる。こういう姿勢、よくした。ああ、夏休みな感じ。冷えた身体をタオルで拭くと、ほかほかしてきて凄く気持ちいいんだよなあ、、、、と、じーーーーーーっ。

ドアが並んでいる作品では、壁に残っているテープ痕みたいなのも気になったが、ドアに書いてあるルームナンバーのような看板の番号が102の隣が202であるところ。普通、マンションの部屋番号であれば、102の次は103だよな。でも、そういえば昔住んでいた会社の寮の倉庫は、102、202、302の順に並んでたな、なんて思い出しながら、じーーーーーーっ。


しかし。
気になる部分って、たいてい他人と共有できない。だから、kenaato先生が、ドアのナンバリングが気になっていたと言ってくれたときは結構嬉しかった。

私の鑑賞は、常にこういうディテールに入っちゃう感じである。
時に、「職業病ですね」「さすが日々の鍛錬が、、、」なんていわれるのだが、それは誤解。むしろ、ディテールにばっかりはまっていると、仕事にならないんです。仕事にはもっと俯瞰的な視点が必要なので、私が仕事を通して学んできたのは、むしろ、そういうディテールにマニアックにとらわれずに「みんなが見ているように見る」ことなのだ。

えーと、よそみちにそれてしまったが、とにかく、こういう「自分だけに響くディテール」を大事に大事にして、一冊の写真論をものした批評家がいる。

ロラン・バルト。

彼の『明るい部屋』という本は、徹底して、撮る人からではなく、見る人からの視点で描かれた写真論だ。バルトは、人が写真からだれもが共通して読み取れること(「この写真は黒人の家族を写したものだ」、「この写真は死刑囚を写したものだ」etc...)を「ストゥディウム」といい、それに対して、私だけがごくごく個人的に刺激を受ける部分を「プンクトゥム」と名づけた。
例えば、バルトは見知らぬ黒人の家族写真に妙に惹かれる。考えていくうちに、それは女性の首飾りが母が若い頃の写真で見につけていたものと似ていたからだ、という記憶にたどりつく。この首飾りが、彼のいう「プンクtゥム(突き刺すもの)」。他の人にはなんでもないディテールが、バルトにとってだけは、自分を刺し貫くものとなる。

『明るい部屋』は、彼の最晩年の本だという。しかも、それまでの彼の「怜悧で客観的な分析」というイメージは影をひそめ、ある時にはほとんどセンチメンタルな自伝のようになる。
世界を冷静に語り続けたバルトだが、ここで奇妙にも自分の子供時代の記憶を克明に語っているのは、「プンクトゥム」という概念が、そこまで自分を明かさないと伝わらないものだったからだろう。

さらに、バルトは、写真を「それは・かつて・あった」ものだという。処刑される前の若者の写真を見たバルトは、「それはかつてあった」という。(=「この若者はかつて存在していて、今はいない」)。
一枚の写真を見たとき、「それを撮った時点」(若者は死ぬべき運命にあり、それでも生きている、という瞬間)と、「今」(若者は死んでいる)という二つの時間を並行して感じ、驚くことが写真の本質なのだ、とバルトは言う。
そういう、取り返しのつかない時間の経過を突きつけられるというか、失われたものへの愛惜というか、、、、そんな感じは、確かに写真を見るといつも感じるものだった。



古池さんの写真からはなんとなく離れてしまったようで、実はあんまり離れていないのだけど。
私にとって写真を見るというのは、他のアートよりもずーっとーっと個人的な体験らしい。

こう書いていて思いついたことがある。
まだほんとにヒント、という程度の思いつきだが。バルトは、徹底的に見る側にたった写真論を書いたわけだが、実は撮影する人の側から見ても有効な理論という気がしてきた。


追記。
上記の「それは・かつて・あった」という感じは、CGの発達や、デジタル写真になって画像加工が簡単になったことで、成立が怪しくなっているのではないか。
というのは、「それは・かつて・あった」と思えるためには、撮影した写真が、ある瞬間の事実をそのまま写したというのが前提だからだ。でも、最近は、デジカメの発達もあって、写真が様々に加工されていることは、当然のことになってきた。(アイコラを見て「それは・かつて・あった」とは思いませんよね。コラージュって、そういう意味では写真ではなくて、絵だ。)そうなると、素朴に「それは・かつて・あった」という感慨を持つ世代は、私辺りで終わってしまうのかなあ、と思うのだ。


さらにどうでもいい追記。
昔風、というと「セピア色」を思い出したり、「青っぽい色彩」を思い出すのは、それぞれ白黒写真、カラー写真が古びた時のイメージと密接に結びついている。
でも、原理上古びないのがデジタル写真。では、これから、「古さを感じさせる映像」の定番は、どんなものになるのだろう。(デジタルのノイズがバリバリに乗った写真?まさか??)



なんだか、いつにも増してまとまりがない話になってしまったが、、、、。
バルトを読んだときは、「こういうふうに写真を見てもいいんだな」と、本当に救われた気がしたことを思いだしたりしつつ、おやすみなさい。



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Posted by しぞーか式。 at 22:55│Comments(1)しぞーかでアート
この記事へのコメント
>それまでの彼の「怜悧で客観的な分析」というイメージは影をひそ>め、ある時にはほとんどセンチメンタルな自伝のようになる。
>世界を冷静に語り続けたバルトだが、ここで奇妙にも自分の子供時>代の記憶を克明に語っているのは、「プンクトゥム」という概念
>が、そこまで自分を明かさないと伝わらないものだったからだろ >う。

これって,いいですね.
私も最近はこんな感じになってきています.

以下作品と理論(理屈?)について.

作品のことについて質問されると,理路整然と,インテリ的に,ロジカルに答える,っていうのが,学生時代からの“流行り”だったのですが,そういうスタイルがいつの間にか,自分にとって薄っぺらい装飾になっておりました.

言葉という機能を使って,作品の受け取り方を,より面白くする事は出来るとは思いますが,作品を初めて見た時のプンクトゥム的な経験は記憶に残るでしょうし,極論を言えば,すでに“作品で(が)語っている”わけです.言葉で補うってことは,作品が欠如している,つまり,作品に妥協しているって事が言えるんじゃないでしょうか?

ともあれ,身体から出る言葉は響きます.
Posted by snaut at 2009年07月18日 00:46
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