2009年04月06日
宿題提出~強靭な「どっちつかず」~
2週間前、グランシップに併設された劇場で、静岡県内の現役女子高生と元女子高生が出演する『転校生』という演劇を見た。
終演後、清水のイベントスペースのスノードールで感想を話し合うイベントがあって参加したのだが、その場の宿題として、この劇の感想を書くというのがあった。ずいぶん時間が経ってしまったが、なんとなく考えがまとまってきたので書いておこう。
演劇を見ていない方にとっては、全く面白くない記事だと思うので、「請う、読み飛ばし」。
今回見た『転校生』は、高校生が高校生を演じている。
この、一種の「入れ子」構造が、独特の効果(と混乱)を生む。
「役者」は「役」を演じるものだ。
このとき、「役」と「役者」は、いわば地と図の関係にあって、どっちかが見えるとどっちかはひっこんでしまう。
見る側が劇に没入すれば、役者の素顔や私生活などどうでもよくなるし、逆に、役者の素顔を考えるようでは、劇に集中などできなくなる。
普通だと、演劇の進行中に観客が役者の素顔に思いをいたすと劇の観賞など出来ないし、そうなってしまうとしたら演出や役者の「負け」だ。
たとえば、『ハムレット』が盛り上がっている真っ最中に、客が「この人、私生活では離婚したんだよな」と思ってしらけてしまう、みたいなことだ。
ところが、今回の『転校生』では、むしろ「役者」と「役」を混同させるように仕込んである。
(今回の「スノドカフェ」の合評会でも、(私も含め)「女子高生ってこんな話方するんだよね、リアル!」「こんな話し方はしないからリアルじゃない」みたいな議論があった。しかし、これは、よく考えれば、まさに「役」と「役者」の混同だ。)
今回の舞台が、女子高生の生態を生き生きと描けていたとすれば(描けていたと思うが)、その時誉められるべきは「役者のスキル」や「台本の完成度」であって、演じた女子高生たちが「リアル」だからではない。
実際には、彼女達は舞台に立ち、暗い客席に向かってセリフを言っていたわけで、彼女達に言わせれば、「あれがリアルなんてとんでもない」のだと思う。
ところが、そう思う彼女達も、この劇の仕掛けから自由ではいられない。
たとえ、彼女達の意識としては全然自分と違うキャラクターを演じていようとも、観客はその彼女達が演じる「役」こそが、彼女達の「地」、本質だと思っているのだ。
この構造、ほんとうに良く出来ている。
「自己言及型の構造」ということで、フランソワ・トリフォーの映画、『アメリカの夜』を思い出した。これは、映画の撮影現場を舞台にした映画で、監督であるトリフォーが監督役を演じている。
こうして、「役」と「役者」を、いわばショートさせることで、リアルとアンリアルの境界をずぶずぶにしてしまうことが、今回の『転校生』に仕掛けられた巨大な爆弾だったのではないだろうか。
だからこそ、劇が終わって、付き合っている男の子と記念写真をとっている彼女達を見て、「がんばったねえ」と、まるで文化祭のエンディングの時のように、同志的な共感を感じたのだと、今思う。
リアルとアンリアルの堺をなくすような演出は、あちこちに施されていた。
まずは、開演前に鳴っていた「時報+音楽」だ。
あの時報は、開演の時点のリアルな電話の時報を拡声して使っている。
これ自体ユニークな演出だが、さらに面白いのは、開演前から、舞台が始まってしばらくまで、同じこの時報が鳴り続けていたこと。
普通、開演前の音楽と、舞台の音楽は区別される。
つまり、この時報は、舞台空間が現実の世界となるだけ地続きであるように見せる演出ではないか。
さらに。
この劇は、照明のバトン(ライトをつける棒)が舞台ぎりぎりまで下がりきった状態で始まる。
この状態は、劇場の舞台裏を知っている人には見慣れた風景だ。舞台のはじまる前、まずはバトンを下ろして、照明担当がライトの方向を調整し、バトンを上げて、劇がスタートする。
つまり、バトンが降りているということは、「今は舞台は始まっていないよ」という、強烈な記号なのだ。
しかし、当然ながら、バトンが降りている状態で演劇自体は始まっている。
そして、最後もバトンが降りきって、演劇が終わった、、、、、と思わせておいて、最後のあのジャンプの場面が始まる。
この場面は、演劇の一部なのか、フィナーレの顔見世なのか、それともこちら側の現実と地続きの、彼女達の現実なのか。
その、「どっちちかず」さが強靭に立ち上がるところが、この劇の見所なのだと思う。
結論?
結論は、、、、、
こんなにも壮大などっちつかずさって、現実(リアル)と、とっても似てる。
終演後、清水のイベントスペースのスノードールで感想を話し合うイベントがあって参加したのだが、その場の宿題として、この劇の感想を書くというのがあった。ずいぶん時間が経ってしまったが、なんとなく考えがまとまってきたので書いておこう。
演劇を見ていない方にとっては、全く面白くない記事だと思うので、「請う、読み飛ばし」。
今回見た『転校生』は、高校生が高校生を演じている。
この、一種の「入れ子」構造が、独特の効果(と混乱)を生む。
「役者」は「役」を演じるものだ。
このとき、「役」と「役者」は、いわば地と図の関係にあって、どっちかが見えるとどっちかはひっこんでしまう。
見る側が劇に没入すれば、役者の素顔や私生活などどうでもよくなるし、逆に、役者の素顔を考えるようでは、劇に集中などできなくなる。
普通だと、演劇の進行中に観客が役者の素顔に思いをいたすと劇の観賞など出来ないし、そうなってしまうとしたら演出や役者の「負け」だ。
たとえば、『ハムレット』が盛り上がっている真っ最中に、客が「この人、私生活では離婚したんだよな」と思ってしらけてしまう、みたいなことだ。
ところが、今回の『転校生』では、むしろ「役者」と「役」を混同させるように仕込んである。
(今回の「スノドカフェ」の合評会でも、(私も含め)「女子高生ってこんな話方するんだよね、リアル!」「こんな話し方はしないからリアルじゃない」みたいな議論があった。しかし、これは、よく考えれば、まさに「役」と「役者」の混同だ。)
今回の舞台が、女子高生の生態を生き生きと描けていたとすれば(描けていたと思うが)、その時誉められるべきは「役者のスキル」や「台本の完成度」であって、演じた女子高生たちが「リアル」だからではない。
実際には、彼女達は舞台に立ち、暗い客席に向かってセリフを言っていたわけで、彼女達に言わせれば、「あれがリアルなんてとんでもない」のだと思う。
ところが、そう思う彼女達も、この劇の仕掛けから自由ではいられない。
たとえ、彼女達の意識としては全然自分と違うキャラクターを演じていようとも、観客はその彼女達が演じる「役」こそが、彼女達の「地」、本質だと思っているのだ。
この構造、ほんとうに良く出来ている。
「自己言及型の構造」ということで、フランソワ・トリフォーの映画、『アメリカの夜』を思い出した。これは、映画の撮影現場を舞台にした映画で、監督であるトリフォーが監督役を演じている。
こうして、「役」と「役者」を、いわばショートさせることで、リアルとアンリアルの境界をずぶずぶにしてしまうことが、今回の『転校生』に仕掛けられた巨大な爆弾だったのではないだろうか。
だからこそ、劇が終わって、付き合っている男の子と記念写真をとっている彼女達を見て、「がんばったねえ」と、まるで文化祭のエンディングの時のように、同志的な共感を感じたのだと、今思う。
リアルとアンリアルの堺をなくすような演出は、あちこちに施されていた。
まずは、開演前に鳴っていた「時報+音楽」だ。
あの時報は、開演の時点のリアルな電話の時報を拡声して使っている。
これ自体ユニークな演出だが、さらに面白いのは、開演前から、舞台が始まってしばらくまで、同じこの時報が鳴り続けていたこと。
普通、開演前の音楽と、舞台の音楽は区別される。
つまり、この時報は、舞台空間が現実の世界となるだけ地続きであるように見せる演出ではないか。
さらに。
この劇は、照明のバトン(ライトをつける棒)が舞台ぎりぎりまで下がりきった状態で始まる。
この状態は、劇場の舞台裏を知っている人には見慣れた風景だ。舞台のはじまる前、まずはバトンを下ろして、照明担当がライトの方向を調整し、バトンを上げて、劇がスタートする。
つまり、バトンが降りているということは、「今は舞台は始まっていないよ」という、強烈な記号なのだ。
しかし、当然ながら、バトンが降りている状態で演劇自体は始まっている。
そして、最後もバトンが降りきって、演劇が終わった、、、、、と思わせておいて、最後のあのジャンプの場面が始まる。
この場面は、演劇の一部なのか、フィナーレの顔見世なのか、それともこちら側の現実と地続きの、彼女達の現実なのか。
その、「どっちちかず」さが強靭に立ち上がるところが、この劇の見所なのだと思う。
結論?
結論は、、、、、
こんなにも壮大などっちつかずさって、現実(リアル)と、とっても似てる。
Posted by しぞーか式。 at 23:36│Comments(0)
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