2011年06月08日

「ただそこにいること」について

先週、舞台『エクスターズ』を見てきた。

そもそも、バスに乗って日本平の坂道を延々のぼっていくところから、すでに演劇は始まっているのだろう。逢魔ヶ時にたどり着いた舞台には、高さ10メートルもの板壁がめぐらされ、タイヤや滑り台、そのほかなんだかよくわからない遊具などが置かれている。
明かりが落ちて舞台が始まる瞬間、舞台下手の大きな木が風で揺れ、葉っぱがザーと鳴った。


精神分析医から劇作家になったという異色の経歴のタニノクロウさんの演出。6人の「おばあさん」と、3人の男が登場する、演劇ともなんともいいがたい、不思議なものを見てしまったような経験だった。
登場人物たちにはほとんど台詞はなく、ふつうのおばさんが歌うように歌い、踊るように踊っているうちに舞台は終わる。
一応章立てめいたものはあるのだけれど、それは、誰が何をどんな場所で歌うか、の目印になっている程度で、明確なストーリーはない。
なので、見ている間中、この空間とどう向き合っていいのかわからなくて、ときどき仕込んであるちょっとしたジェスチャーをつかった笑いどころにも乗れず、、、、終わった直後は、しばらく呆然としていた。

手のかかった舞台装置と、ほとんど唄だけで1時間強の時間を見せきる構成力には感心したのだけれど、おばあさんたちがなんだか「普通に生々しい」ので、寓話風にも見えず、強烈な印象は残しつつ、感想は言葉にならないというのが正直なところだったのだ。直後に感想を聞かれたら、「なんだかよくわかんなくて、すごくおもしろかったわけでもない」という、実も蓋もない感想しかいえなかったと思う。


舞台を見て数日たった今、急に舞台のことを書きたくなって、久しぶりにPCを立ち上げた。

実は、昨日、内田樹の、『映画の構造分析』を読んでいたら、精神分析とは、医者と患者が共謀して物語を作る作業である、と書いてあって、なんとなく自分なりにあの時間の意味が見えてきたような気がしたのだ。

内田さんによれば、「マザコン」だの「エディプスコンプレックス」だのが最初からあって病気になってしまうわけではない。逆に、患者の病歴と医者の個性(欲望、かもしれない)が相互作用しあって、「私はファザコンです」とかいうストーリーを遡及的に作り上げて、自分の今までの病気を「説明する」。説明が出来ることで、本人は治療に向かう、というのが内田さんの卓見だ。

あの舞台は、そういった精神分析的な説明がされる前の、混沌としたなにものかをそのまま舞台に乗せる試みなのかもしれない。あまりに混沌としているので、明確な感動も、喜び・悲しみもないのだけれど、じつは、人の感情の底流って、そんなふうに言葉にならない、微妙なさんざめきのようなものが、ただただ広がっているだけなんじゃないだろうか。


日本平の山腹という、巨大な場所が、「心」というものの比喩にすら思えてくる。バスで夕闇の道を進み、ゆきついたところに無意識のありかを探す旅。

演劇というよりは、体験に近い何物か。

そこには、なんだかわけのわからない混沌があって、私たちは時々そのなかに体を置くことで、なんだかわけのわからない安心な気持ちを得るのだ。

  


Posted by しぞーか式。 at 12:18Comments(0)しぞーかでアート