2011年12月11日

オイディプスと『時そば』

★★① 「時そば」のアゲアゲ感について★★

先週、静岡芸術劇場でSPACの『オイディプス』を見てきた。きょうはこの劇の一種独特な後味をなんとか言葉にしてみようと思うのだけれど、、、、、どんなふうに語りだしたらいいんだろうと悩んだ末にふと思い至ったのは、ご存知、古典落語の『時そば』だった。

子供の頃から落語の書き起こしや翻案の本が好きで、よく読んでいたので、『時そば』のストーリー自体は昔から知っていた。今改めて見ても、実際よく出来た話だと思う。
でも、その後、実際にCDやラジオで耳で聴いてみると、その魅力は、ストーリーの妙だけでなく、「反復」の気持ちよさにもあることがわかってきた。

とは言え、まずはそのストーリーはというと…
寒い冬の真夜中、屋台の蕎麦屋に男がやってくる。この男がとにかくよく喋る。店のどんぶり、だし汁、箸、果ては店名まであらゆるものを誉めまくって、店主の気持ちと会話のテンポを「アゲ」ていくのだ。男と店主の丁々発止の台詞の楽しさ!亭主もおだてられて、気持ちもいいし、会話にもテンポが出てくる。そしてそんなドライブ感あふれるやりとりのクライマックスとなるお勘定のときには、「ひい、ふう、みい、、、、、七つ、八つ、おい、今何時(なんどき)だい?」「へい、九つで」「十、十一、、」とおなじみのトリック。亭主も、それまでの会話で十分に会話のテンポが上がっているからこそ、このトリックは成り立つんだな。このテンポ感、亭主が騙されてしまうのも分かる。とまあ、ここまででも一つの鮮やかなサギ物語として成り立ってはいるんだけれど、噺はもちろんこれでは終わらない。
続いて中盤は、そのサギの一部始終を見ていた粗忽者が語り手として登場する。
男は、先ほどの饒舌な男の口調を口に出して何度も確かめ、いかに彼がうまく蕎麦屋をだましたかを検証していくのだけれど、その検証のたびに、例の「ひい、ふう、みい、、、今何時だい?」というフレーズが粗忽者の口を借りて鮮やかに「再生」される。
そして後半は、いよいよこの男の真似をしようと粗忽者が店に入っていく、実践編。ところが粗忽者は、流麗な口調を真似しようとしても思うようにいかず、屋台の店主との会話がズレまくってしまう。(前の男がしたように器を誉めようとするのに、その器たるや「どっちから口をつけても、ノコギリみたいに欠けてやがって危なくて仕方ねえ」代物。亭主に、「お客さん、器をくるくる回して、お茶の心得でもあるんですか」なんてからかわれる始末、、、、これは四代目春風亭柳好のバージョン)
鮮やかな饒舌が再現されそうになりながら、常にそれがうまく決まらない。リピートに見えて実は変奏、が繰り返されるこの展開も、まためくるめくドライブ感がある。そしてその変奏のクライマックスとして、ドジな男が、「七つ、八つ、おい、今何時だい」「へい、四つで」「いつ、むう、、、、」と、都合2文損をするという、おなじみのオチに至る。

(完全に余談だが、今ふと、「九つ」と「四つ」って何だろうと思って調べてみた。饒舌な男がまんまと蕎麦屋をだました時刻は、江戸中期以降の時間の呼び方だと、「暁の九つ」で0時~2時ごろ。そして、粗忽者が挑戦した「暮れの四つ」は22時~0時なんだそうだ。粗忽な男は、翌日にでも挑戦したんだろうか、いずれにしても先の男より、ちょっとだけ時間が早すぎて失敗したというわけだ。うーん、江戸文化は奥が深いなあ。)


さて、この噺は、「今何時だい?」という台詞が、時間の進行とともにその意味を変えていくのが一つの構成上の妙になっている。最初は、口の達者な男の「現実での語り」として。次は、粗忽者による「記憶の再現」として、そして最後は「現実での再現(の失敗)」として。

別な言い方をすれば、口達者な男がいったん完成させた一文サギの話(これはこれで一つの物語として完結している)を、粗忽な男がなぞり、しかもいちいち失敗していくことで新たな物語を立ち上げている。ちょっと洒落て言えば、物語とメタ物語がセットになった物語なのだ。
作品と批評の関係と似ていると言えば言えよう。


★★② パンフォーカスという名の混沌★★

さて、ようやく『オイディプス』の話の入り口までたどりついた。
今回SPACで見た『オイディプス』で感じたのは、この「繰り返し」と「繰り返しの失敗」=「ズレ」の問題だった。

演出家の小野寺修二さんは、もともとの『時そば』、、、じゃなくて、もともとの『オイディプス』の話を、メタ物語として改めて語りなおしていたのだ、と思う。
もとの『オイディプス』の台詞は、古典・原典として決定的に変わらないものとしてある。これは、さっきの『時そば』の例でいうと、前半部分の饒舌な男が見事に決めたサギのお話にあたる。
一方、SPACの舞台では、その原典から必要な部分を切り取り、繰り返し、時には別な要素も補助線として取り込んで構成する。観客は、その反復とズレを生み出す手つきの妙を楽しむのだ。

もちろん、反復の仕方は『時そば』ほどシンプルなものではないけれど、使っている材料自体は、伝統的な『オイディプス』という戯曲をベースにしている。そのうえで、今回の小野寺版『オイディプス』は、物事の前後関係と空間関係、そして役者と役の一対一関係を様々な形でいじることで、物語に豊かな混沌を持ち込む。
たとえば、、、、、


「オイディプスやその妻など、重要な登場人物を演じる役者が複数いる」

「その役者たちは、時に同じ舞台上に登場し、一つの台詞を分け合ったり、舞台の左右で同時に演じたりする」

「そのバリエーションとして、オイディプス1と妻1、オイディプス2と妻2が会話をしている中で、脈絡なくオイディプス1と妻2が視線を交わし、会話を始める」

「重要なシーンは、一連の台詞が発せられた後、時間が巻き戻され(巻き戻しを象徴するテープノイズが流れ、俳優の動きも逆転する)、位置関係を90度(180度?)ひねった立ち位置で、同じシーンが演じられる」

「舞台の右と左で過去と現在の場面が並行して進行する」


これら全ての演出は、考えてみればみんな、舞台上に「唯一の焦点」を置かないための演出だろう。
念のため強調しておくと、これは見るべきものがない「無焦点」=ピンボケではなくて、見るべきものが多数並存する「多焦点」状態だ。映画で言えば、画面の隅々まできっちりピントが合っている「パンフォーカス」の状態だ。


しかし、これは観客にとってどう見えるのだろうか。
舞台でパンフォーカス状態が常に繰り返されているので、観客側も、今しゃべっている役者だけを見ていればストーリーが追えるわけではないことにはすぐに気づくだろう。さらに、舞台上でふりまかれる情報量が多すぎるので、その全ての情報を追い、記憶することも無理だと断念する。そんなわけで、観客の視線は中心を失ってさまよいつつ、個別の焦点ではなくて、舞台全体が表す全体的なムード、気分を感じることに向かい始めるだろう。
言い換えれば、観客は、「これは全てを追わなければ分からない演劇ではない。見逃してもいいんだ」と、自分に言い聞かせながら見ることになるわけだ。
こうした演出は、演劇を見る客にとってはかなり特殊な体験だと思う。私は、平田オリザさんの『忠臣蔵』とか、飴屋法水さんの『転校生』(以前のブログ記事参照)あたりを連想した。


★★③ オイディプスという大ネタ★★

さて、もう一つ、今回の『オイディプス』がもともとの台本のカット&ペーストで出来ているということを考えると、どうしても「ヒップホップ的」という言葉が浮かんでしまう。
中でも今回の舞台に関連しそうなのは、「大ネタ」という概念だ。

伝統的に、ヒップホップのバックトラックの多くは、昔のレコードの一部を切り張りして作られてきた(ちなみに、元となる素材は「ネタ」というんだけど、これも落語を連想させるな(笑))。そして、そのネタとして有名な曲を使う場合は、「大ネタ」と言うらしいのだ。たとえば、ポリスの『Every Breath You Take』から『パッヘルベルのカノン』、果ては『太陽にほえろ』のテーマまで、一聴して「ああアレ、、、」とわかるものが大ネタと言われるわけだ。

さて、そういう誰でもわかる曲を使って新たな曲を作り上げる場合には、元曲の持っている意味が新たに作られた曲の中に埋め込まれてしまうということが起こる。
たとえば、ポリスの『見つめていたい』をサンプリングした曲は、誰かを追い求める歌のイメージが、最初からついてくる、とか。

さらに、何人ものミュージシャンが使っているような超有名なネタになってくると、アンサーソング的な文脈を暗示するシグナルだったりもする。
もちろん、そんなものに気づかなくても楽しめるのが音楽だし、「聞き手の音楽リテラシーが問われる」みたいな大げさな話ではない。でもまあ、ネタとその文脈を知っているとさらに楽しめる、面白くなるというのがヒップホップの楽しみの一つになっているわけだ。
今回の『オイディプス』に話を戻すと、自分にもう少し演劇歴史の知識や、他の劇団の『オイディプス』を見た経験があったら、もっと面白かったろうな…。


話が逸れたが、今回の『オイディプス』、「大ネタ」という補助線から見ると、超古典である『オイディプス』という「大ネタ」戯曲をコラージュして作った作品という見方ができる。
そんな紛らわしい寄り道をしなくても、再解釈と言えばいいじゃん、と自分に突っ込みつつ、やはり、素材が超有名戯曲であるがゆえに大胆な改編が出来たとは言えるだろう。

というのは、『オイディプス』という戯曲には、現代人に共感できる要素がとても少ないからだ。

フロイトのエディプスコンプレックスという概念があまりにも強力なので誤解されているようだけれど、戯曲に登場するオイディプスは、父を殺したいと思っていたわけではないし、母を娶りたいと思っていたわけでもない。神の仕組んだ様々な偶然が重なって、たまたま殺した男が父だったし、王の座を得るために娶った妃が母だった、というだけ。
ということは、今の私たちからすれば、オイディプス王に対して「あの時こうしておけばこんな悲劇は起こらなかったのに」という形では、同情、共感できる要素がないのだ。オイディプス王には迷いも後悔もなく、戯曲が始まった時には破滅へのレールがガッチリと敷かれ終わっている。
主人公に逃げ道はなく、ひたすら苦悩に暮れるだけだ。こんなオイディプスを見ても、ギリシャの神を身近に感じられない現代の私たちからは、「偶然だけでこんなひどい目にあってしまうんだ、へー」という感慨以上のものは生まれないのだ。

今回の『オイディプス』のコラージュから読み取れるのは、そうした原典との向き合い方の難しさを逆手にとって、鮮やかに今の劇として提示できたことだろう。演出家が大ネタの脚本から見事にサンプリングして見せたのは、「混沌」だった。


★★④ 終わらない蕩尽★★

さて、ここがたぶん、一番言葉にしにくくて、でも一番心に残ってしまう部分なのだけれども。
一番印象に残るのは、この一時間少々の舞台に込められた、膨大なエネルギーだ。

杖を使った踊り。

テーブルとハシゴを縦横無尽に組み合わせ外す動きに合わせて、役者がその階段をひたすら上り下りする場面。

役者が椅子から立ち上がり、その立ち上がる様を逆回転でなぞりつつ座る場面。

たとえば、「時間が戻る」というコンセプトを演出家が考えたとして、そしてそれが前後のシーンに無理なくはまるように構成までは考えるとしても、それを実現するのは役者とスタッフの力技なのだ。
力技、と一言でいうけれども、今回でいえば階段の踏み台とヤオヤ台(斜めの台)を組み合わせて、瞬時にずれないように固定できる構造。テーブルを二つ合わせ、離す時のタイミングと力の掛け具合。演出家が考える「イデア」を実現するために、現場ではらわれる莫大なエネルギーが、一つの舞台であっというまに提示され、消えていく。その手間の掛け方と、過ぎ去り方の潔さ。これらの場面を見たときはあっけにとられた。

この舞台には、とても力が入っていて、でもそれは私には全て把握することはできないのだ、でも圧倒的だからいいじゃん。
そういう、なんだか深いところでとても贅沢な感じ。万遍ない蕩尽。

この戯曲の贅沢さと不安定さは、つまり終わらない蕩尽にあるのではないかと、思ったのだった。


・・・・・・・・・・・・・・

さてさて。
もちろん、上記の話だけでは『オイディプス』が全て語りつくせるわけも無くて、例によって、文脈を省みず、いくつか気になったことをメモしていく。

オイディプスは、史上初の探偵物語だという説がある。
確かに、秘密が隠されている世界で、いろんな人に話を聞き回りながら謎を解いてゆくというのは、まさにハードボイルドの探偵譚のようだ。オイディプスがフィリップ マーロウと違うのは、自分にまつわる謎を解いていることだけかもしれない。
『オイディプス』の場合、犯人はオイディプスというより、むしろ神なのだが。
おそらく、オイディプスのストーリーに現実味を持たせるためには、「破滅してもいいから謎を解き明かしたい」という執念を強調することなんだろうな。
ここまで考えて、八十年代に作られたとあるハードボイルドタッチの探偵映画を思い出した。タイトルを書いてしまうだけで完全なネタバレになるので、気になる方はここにリンクだけ貼っておきます。
そうか、あの探偵、オイディプスだったのか、と気づいて面白かったので。


さらにもう一つ余談。
私は、先週清水のスノドカフェで開かれた「語る会」にも参加していたのだが、ここでとても納得する解釈を聞いたのでメモしておく。

『オイディプス』の原題は、『僭王オイディプス』と言う。僭王とは、神による正式な承認がないまま、実力で王座を勝ち取った王を呼ぶ呼び名。
当時、ギリシャには王政を敷いている国、いない国が入り乱れていて、王政についての議論も活発であったろう。だから、神に承認されなかった王「オイディプス」が、どんなによき王であっても、自らが関与できない運命によって結局堕ちてゆく物語は、強い政治性を持っており、アリストテレスがこれを絶賛したのも、もしかしたら政治的な意図があったのかもしれない、とのお話。なるほどねえ。
  

Posted by しぞーか式。 at 19:34Comments(0)TrackBack(0)しぞーかでアート

2011年11月02日

壁と、風と。

先日見た、SPACの『ガラスの動物園』の感想を書こうと思ったのですが、どこに書こうか考えた挙句、この場所に書くことにしました。また復活、というわけでもなくて、ちょっと間借りと言うことで、、、、、。(←自分に間借り??)さて、始まり始まり。



『ガラスの動物園』に登場する、引っ込み思案な主人公の姉、ローラはどんな音楽を聴いていたのだろうか。

設定は1930年のセントルイスだから、「St. Louis Blues」? いや、南部出身で、「チャタレー婦人」を毛嫌いするお上品なお母さんが、ジャズのレコードをかけるのを許すはずはないだろうから、お母さんが許してくれるのは、たとえばガーシュインの「The Man I Love」とか、ホーギー・カーマイケルの「Georgia (on My Mind) 」あたりの、小唄かもしれない。

そんな歌をSPレコードで何度も繰り返し聴きながら、ガラスの動物たちが暮らす動物園を手入れしているというのだから、確かにローラは変わっているのだろう。

私が初めて『ガラスの動物園』を読んだのは、たぶん高校時代。その時は、何てよく出来た、救いのない物語だろう、と思ったのを覚えている。


ネタバレしないと話が進まないので、ここであらすじを書いて、いかにこの話がよく出来ているのか説明するのを御容赦いただきたいのだけれど、、、、、


まず、劇は、語り手のトムが、「この劇は追憶の世界です」、と、語り手(=追憶する人=劇作家)の立場から、観客に話しかける。この時、トムのうしろには薄幕がかかり、幕の向こうには、トムが既に飛び出してしまった家がある。そして、そこには過去の母と、過去の姉が暮らしている。トムがひとしきり劇の説明を終えると、その薄幕の世界から母の呼ぶ声が聞こえて、トムはその物語の中に入っていき、追憶の物語が始まる。

こんなふうに、『ガラスの動物園』は、幕開け一番に、登場人物が「これは劇だ」とはっきりフレームを示すというとびきりトリッキーな始まり方をしているのだけれど、それが単に思いつきで終わらず、「追憶の劇」であるという設定と、薄幕で覆われた舞台装置とが見事にシンクロして、ケレンはあるが実験的な感じはない。

さて、そこで語られる物語は、、、、
ローラの母は、ローラを結婚させようと必死だ。そこで、弟であり語り手のトムが友人のジムを家に誘い、途中までいい雰囲気になるのだが、実はジムには婚約者がいて、みんながっかりする、そして、いたたまれなくなったトムは家を飛び出す、そして、舞台の幕開けと同じく、トムの回想として物語が終わる。

ここまで話せば、私が高校のころに、「なんて救いのない物語だ」と思った理由がわかってもらえると思う。観客は、みなローラを好きになる。そして、観客のローラの幸せを願う思いが物語の中盤の推進力になっている。なのに、後半、みごとにローラはもう一度孤独に戻ってしまうのだから。

でも、今回SPACの『ガラスの動物園』を見て、本当は、救いのある話なのかも知れないと思い始めた。

隙のないはずのこの物語に空いている風穴。それは、何より、物語が終わろうとする頃、セットに吹き始めた風だった。

今回のSPACのセットでとても印象的だった、舞台を覆う薄幕は、実はテネシーウイリアムズ自身が、戯曲に指定している演出だ。
薄幕は、壁を象徴するセットであるとともに、(冒頭にトムが述べているように)幕越しに展開する物語はトムのおぼろげな記憶であることを表す。
今回のSPACの演出で興味深かったのは、この薄幕に、さらに、世間から壊れやすいローラを守る「結界」という意味も持たせていることだ。繭と言ってもいいのかな、、、。
今回のセットは、薄幕が蚊帳状に四角く吊られた空間が居間であり、ローラの部屋。その中には、外界の恐ろしいもの、強いもの、うるさいものは原則入ってこれず、ローラを純粋なまま保ってくれる空間、のはずなのだが、実は、母はそこに時おり「世間」を持ち込んできてローラを苦しめるし、最終的にはジムがその中に入り込み、ローラの大切にしていた一角獣の角を折ってしまうのだ。

このとき、舞台に風が吹きはじめる。すると、薄幕でできた「壁」がゆれて、ローラを包んできた結界が解け始める。

このシーンの開放感。
これを見たとき、私は、この悲劇的な話は、本当はもう一つ、どんでんがえしの解釈があると気が付いた。

今まではこう思っていた。
ローラは、一瞬の恋の予感のあと、このあとも部屋に閉じこもってずっと一人で暮らすだろう。
物語の終わりで消えるろうそくは、ローラの死を象徴しているのだ。

でも、こうとは考えられないだろうか。
物語の終わりでローラがろうそくを消すのは、ローラ自身の死を象徴しているのではなくて、ローラが閉じこもってきた『ガラスの動物園』の閉園を告げるレクイエムなのだ。
ローラは、ジムが一角獣の角を折ってしまったとき、「角をとってもらって、この子もようやく普通になれた」と言っている。ローラは、自分が外へ出て行けるきっかけをつかんだのかもしれない。
(それを聞いたジムは、大失態した自分に気を使ってくれているとしか思っていなかったようだけど、ローラは本当に自分が普通になれる方法に気づいたのかもしれない。。。。。。「ジムは、君の深い想いに気づけない、その程度の男なんだよ、ローラ!」)

ましてトムは、物語となった事件のあと、ローラとは一度も会っていない。だとすれば、「誰かが自分を愛してくれる可能性」をジムに学んだローラが、この事件をきっかけに外交的になった可能性だってある。もしかしたら、タイプの学校へもう一度行くかもしれない、そこで新しい恋を、今度は自分で見つけるかもしれない。トムはそれを確かめなかっただけなのだ。


さて、この話には、もう一つどんでん返しがある。

実は、演劇のアフタートークで、演出家のダニエル・ジャンヌトーさんの話を聴いたら、やっぱりダニエルさんは、終盤を「ローラの死」と意識して演出していたとのこと。

うん、、、そうかもしれないけど、作品は観客のもの。演出家も考えていなかった解釈だって、観客が納得すればありなんだとおもいつつ。今日はこれで幕。



余談。

ガーシュインに「Someone To Watch Over Me」って曲があって、これも1930年にはもう存在していた曲なので、ローラが聞いていても不思議ではない。
このリンク先のUーTUBEには、エイミー・ウエインライトのバージョンを選んだ。
今は亡きエイミーと、ローラがなんとなく重なる気がした。


蛇足。

今回の劇を見て、実にいろんなことを考えて、思いついてはそのままにしてしまったので、ちょっとそいつらの成仏もさせてやりたい。

まず、能との関係。トムをワキと見ると、その語りから亡霊たちが語りだすわけで、ほんとうに夢幻能のよう。そういえば、舞台の幕の開き方も、能の「揚幕」と同じだった。

父の不在ないし内在。トム役の阿部一徳さんが一番実年齢では年上(に見える?)こともあって、実際にトムが父のように感じられた。

はだし。舞台がふわふわの布で覆われていて、そこをローラと母がはだしで歩いていたのが印象的だった。

音楽は、ビョークっぽかったり、デビッドリンチっぽかったり、現代音楽の作曲家のペルトっぽかったりして、これも楽しめた。

お母さんのアマンダ。彼女の存在感をもっと強調した、ゴシックホラーっぽい演出だったらと思うとちょっとぞっとする。だって、アマンダ、ホントに怖いんだもん。




ほんとにほんとに最後の、おまけ。

向かいのダンスホール「パラダイス」から聞こえてくるダンス音楽「世界は日の出を待っている」これは、レスポールと奥さんの陽気なバージョン。

そうだ、まだこの週末も、『ガラスの動物園』やります。
気になる方は、是非。
  

Posted by しぞーか式。 at 01:02Comments(0)TrackBack(0)しぞーかでアート

2011年10月11日

ひとまずさようなら

いったんこのブログを閉店しようと思います。

ぼんやりした思いを、無理やりに言葉にしていく行為は、自分の頭の中を覗くようで楽しかったです。
別名で書くのも好きでした。匿名の陰に隠れるから安心というより、ちょっと抽象性の高い別人格に切り変わることで、現実が別な価値を帯びて見えてくるからです。

でも狭い世間で、いつまでも匿名を続けていくのも限界もありまして。

でも、もっと大きな理由は、この幸せなブログが、自分の中で役割を終えたような、特に根拠はない『気分』。これからどうしたいというビジョンもないんだけど、ちょっとアウトプットを絶ってみたいのかな…

というわけで、マジックアワーはひとまず終わり。
またいつか、お会いしましょう。
  

Posted by しぞーか式。 at 06:54Comments(4)TrackBack(0)

2011年07月20日

隠花ウイルス

以前、会社のパソコンにウイルスが見つかったことがある。
発見当初は何が起こるかと大騒ぎしたのだけれど、調べていくとどうもかなり毛色が変わったウイルスらしいことがわかってきた。
まず、ハードディスクの中の「とても深いところに潜んでいる」ので、通常のウイルス対策ソフトでは(見つかるのだが)退治出来ないのだという。
これに関しては、パソコンには全く暗い私は「ふーんそうですか、面倒なウイルスですね」という他ないのだけれど、もう一つの特徴ときたらこれだ。

「何も悪さをしない」。

これはどうか。普通、ウイルスといえば、こっそりパソコンに入り込んで、何か大きな迷惑をかけるもんじゃないのか。なんというのか、そういう悪意を持ったものがウイルスなんじゃないのか。
なのにこの、ウイルスにあるまじき引っ込み思案な感じときたら。

ハードディスクの奥底で、じっと何もせず潜んでいる。それでいて、チャンスを見つけるとすかさず自分を複製し、ハードディスクの奥底にまた潜む。
こうして、特に何もせず、ただ密かに広がり続けるだけのウイルスって、何なんだろう。

ウイルスというからには、作者がいるのだろう。
全然悪さをしないウイルスであっても作るのは悪いことなのだろうけど、いったいどんな動機でこのウイルスを作ったのか、この作者に聞いてみたい気がした。
ひょっとしたら、隠花植物みたいな、密やかな『いきもの』に命を与えるということが楽しかったのだろうか。



  

Posted by しぞーか式。 at 16:44Comments(0)TrackBack(0)しぞーかに暮らす

2011年07月03日

おでかけ式。

長期出張でしばらく静岡から離れて生活中。なので『しぞーか式。』ならぬ『おでかけ式。』。

今日はコムデギャルソン青山店そばの銭湯『清水湯』の地下のコインランドリーで洗濯 ゆっくり入浴 乾燥が終わるまでロビーで生ビール、という極楽コース。

銭湯のまわりはみんなおしゃれな店ばかり。帰り道では、結婚式の二次会帰りらしきドレスアップした人たちの間を、迷彩の半ズボン、首にはタオルがけで大きな洗濯物を持ってすり抜けた。

今、大量の洗濯物を干す場所がなくて、ホテルの部屋のあちこちに干し広げて、ようやく落ち着いたところ。


なんか、すごくリフレッシュ。
  

Posted by しぞーか式。 at 22:32Comments(3)TrackBack(0)

2011年06月25日

かめのきち



もらっちゃ王が作ってくれた、亀の基地。亀の水槽を洗う間、亀を入れておく場所だ。
最近、この亀が大きくなってしまって、ひょっとした拍子にレンガ二段ぐらいは乗り越えてしまうので、『カメ返し』をつけてくれた。

なんとはなしに、亀型に見えるところにご注目。

  

Posted by しぞーか式。 at 22:52Comments(0)TrackBack(0)

2011年06月24日

あっ。


もらっちゃ王が思わず立ち止まった風景。
  

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2011年06月24日

ピラミッド





しばらく出張なので、そもそも静岡の話ができない。

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というわけで、先日撮った写真を。
もらっちゃ王の発案で、父が作った帽子。というか、本当は仮面ライダーのドリルらしいのだが、もう、なんでもありになっちゃっているのがもらっちゃ王らしい。
  

Posted by しぞーか式。 at 00:00Comments(0)TrackBack(0)しぞーかに暮らす

2011年06月21日

五日かかってる。

今日、姫(小5女子)が、『365歩のマーチ』って知ってる?と聞いてきた。

姫が、「5日で1歩くって悲しいねえ」というので、3日じゃないの?と聞いたら、返事。

一日一歩ずつ歩くでしょ?三日で三歩歩いて、あとの二日は一歩ずつ下がるから、五日かかるんだよ。

確かに。
今までずっと、勘違いしてた。
  

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2011年06月19日

きょうは。

きょうは なにをしたか おぼえていません

ってのはもらっちゃ王の先日の日記だけど。

王にならって、ブログを毎日書くのはやめとこうかな、今は。
言いたいことがない日、ってのを大切にしつつ、今日は雨。
  

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